二十四輩第七 西念

西念寺さいねんじ

<t_012>西念寺

西念寺の寺伝によると、開基の西念さいねんは、八幡太郎(源)義家の子孫で信濃国高井郡井上城主・井上盛長もりながの子、三郎貞親という武士であったという。貞親は文治年間に父・盛長が兵乱によって討ち死にしたことで、無常を観じ仏道を志した。そして越後の五智国分寺に参籠したときに、夢告を得て同地に流罪に処せられていた親鸞聖人の弟子となり、西念という名を賜った。西念は親鸞聖人に付き従って関東に赴いたと伝えられている。

西念は武蔵国足立郡野田(さいたま市)に房舎を建立し、親鸞聖人より譲り受けた聖徳太子像を安置し太子堂と名づけ、ここを道場として専修念仏のみ教えを人々に伝え、門前市をなすほど栄えたという。

聖徳寺と西念の弟・信証

さて西念寺のある当地、下総国幸嶋さしま郡辺田(茨城県坂東市)には、かつて極楽山聴衆院聖徳寺という聖徳太子創建と伝えられる寺があった。当時の住職は天台僧の円盛で、俗称を井上四郎義繁といい西念の弟であった。
円盛もまた兄・西念の縁で、稲田に居住していた親鸞聖人を訪ね、他力の念仏の教えを聴聞し、これこそが末世の相応した教えであると随喜し聖人の弟子となった。そして信証という法名を賜り、兄と力を合わせて辺田の聖徳寺を真宗の道場としたと寺伝は伝えている。

武蔵国野田から辺田へ

一方、西念が当初開いた武蔵国野田にあった道場は、孫・西祐の時、建武の兵乱(1335年)によって焼かれ、退却を余儀なくされた。この際、親鸞聖人が西念に与えた由緒ある宝物は、辺田の聖徳寺へ移されたと伝えられている。
寛文4(1664)年に東本願寺十四代琢如たくにょは、西念の開いた野田の道場が消滅してしまったことを惜しみ、宝物を引き継いだ辺田の聖徳寺を、西念ゆかりの寺として「西念寺」と改め、西念を開基、信証を二世とする旧跡と定めた。
寺宝「阿弥陀如来坐像」は、平安時代後期の作とみられ、親鸞聖人が来訪する以前から、当地に浄土信仰が広まっていたことがうかがえる。

『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用

正式名称 極楽山聴衆院 西念寺
住所 茨城県坂東市辺田355-1
アクセス 常磐自動車道谷和原ICを常総方面に出て、1㎞の「小絹東」交差点を左折し、8㎞の「矢作」交差点を右折し4㎞先の右側。
駐車場 普通車60台
参拝 個人の方は自由に参拝可。※団体の場合は事前連絡が必要。
お問合せ TEL 0297-35-1586

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