二十四輩第五 信楽

弘徳寺こうとくじ(飯山)

<t_008>弘徳寺

厚木市飯山の弘徳寺は、茨城県結城郡の弘徳寺と同じく、二十四輩第五の信楽しんぎょうを開基とする。
弘徳寺の寺伝によると、かつてこの地には聖徳太子の発願によって建てられた地蔵堂があったという。この地を訪れた親鸞聖人が、その宿縁を喜びここに草庵を開き念仏道場としたのが弘徳寺の始まりとされ、後に直弟子の信楽に託したと伝えている。
天正年間までは、住職は下総新堤の弘徳寺と兼務であったが、十二世榮西のときから専従となり法灯を今に伝えている。

信楽の悔悟

信楽は一時期、親鸞聖人の教えに異義を唱え門下を離れたが、後に本願寺第三代覚如が関東に下向したとき面会し、若き頃の非を詫びて門流復帰を許されたといわれている。
しかし、当寺の寺伝によれば、文応元(1260)年、信楽は上洛して八十八歳となっていた親鸞聖人に謁することを許されたと伝えられている。そして事後の教化を託されるとともに、聖人の寿像を授かり帰山したという。つまり、聖人存命中に、門下に戻ることができたと伝えられる。

善鸞の墓所

弘徳寺本堂の南側の小高い丘には、親鸞聖人の息男・善鸞ぜんらんの墓所がある。
親鸞聖人は晩年、関東の門弟たちの間で起きた諍論をおさめるために子息・善鸞を派遣するが、善鸞が異説を説き、かえって混乱を招いた。結局、善鸞は親鸞聖人から義絶されている。
慕帰絵詞ぼきえことば』や『最須敬重絵詞さいしゅきょうじゅうえことば』には、覚如が東国に下向したとき、親鸞聖人から授かった名号を首に掛けた善鸞に出会ったことが記されている。勘当された後も善鸞は、父の名号を肌身離さず携えていたのである。弘徳寺の寺伝では、善鸞は晩年になって父の旧跡を慕ってここに滞留し、弘安元(1278)年3月、六十五歳にして寂したと伝えている。
したがって信楽が善鸞を支えていたとも考えられる。当寺では開基を信楽とし、二代を善鸞の弟子・浄念と伝え、代々、善鸞の墳墓は大切に守られてきた。

『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用

正式名称 親縁山 弘徳寺
住所 神奈川県厚木市飯山455
アクセス 東名高速厚木ICを出て、国道129号線に入り直進。厚木市立病院前交差点を左折し国道412号線に入る。3キロほど進んだ及川中原交差点を左折し、県道63号線に入り400メートル先右手。
駐車場 普通車40台
お問合せ TEL 046-241-1135

二十四輩寺院