二十四輩第三 順信

無量寿寺むりょうじゅじ(鳥栖)

<t_004>無量寿寺

寺に伝わる系図『大中臣氏系図おおなかとみしけいず』には、藤原鎌足を始祖とし、鹿島神宮の宮司を務めた大中臣氏の一族の片岡信親が、出家して順信じゅんしんと名のったと記される。

幽霊済度の伝説

無量寿寺は大同元(806)年、三論さんろん宗の寺として創建。当初は「無量寺」と号し、その後、禅宗寺院になったといわれる。
伝承では、親鸞聖人が常陸在住の頃、当地地頭の村田刑部少輔平高時むらたぎょうぶのしょうたいらのたかときの妻が難産で亡くなりこの寺に葬られたという。ところがその妻が、我が子愛おしさのあまり幽霊となって現れたため、住僧は逃げ去り寺は無住となったという。順信とともにここを訪れた親鸞聖人は、困りはてた村人たちに小石を集めさせ、小石に三部経の文字を一文字ずつ書いて妻の塚に埋め、幽霊を済度したと伝えられる。
聖人はここで三年逗留され、後を順信に託したという。このときから無量寺は無量寿寺と改号し真宗寺院となったといわれる。

信海直筆の書簡

順信は「順信房信海」といい、現在、西本願寺には『信海等連署状』および『信海書状』と呼ばれる二通の信海(順信)直筆の書簡が伝えられている。
『信海等連署状』は、親鸞聖人滅後十八年の弘安3(1280)年のもので、「諸国の親鸞聖人の門弟たちが聖人ご命日の逮夜法要のために銭を送ったが、御廟に仕える念仏衆が勤めを怠けている。今後もそのようであれば、他の僧を招いて法要を勤める」と、大谷廟堂に出仕する念仏衆に対して、順信が顕智や光信とともに強く申し入れた書簡である。
またもう一通の『信海書状』は、弘安5(1282)年に覚信尼かくしんにの長男・覚恵かくえに宛てた手紙で「即生そくしょう房の葬儀の残金を送る」との旨が記され、順信が即生を最後まで世話したことがうかがえる。即生は聖人の子息とみる説もあり、また御消息ごしょうそくには、親鸞聖人が常陸の門弟たちに、即生や今御前らの母の生活援助を依頼したことでその名が知られる。
いずれの書簡からも、順信が大谷御廟に仕える僧たちに影響力を持ち、また聖人の娘・覚信尼等その家族とは深く関わり、支援していたことが推察される。

『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用

正式名称 光明山無碍光院 無量寿寺
住所 茨城県鉾田市鳥栖1013
アクセス 南関東自動車道茨城空港北ICを出て、鉾田市街方面に約7キロ進むと、右手に大きな無量寿寺入口の看板がある。
駐車場 普通車60台
参拝 事前連絡が必要
お問合せ 0291(36)2732

二十四輩寺院