京都(1173-1207年)

ご誕生~法然上人との出遇い


1.ご誕生

親鸞聖人は、平安時代の末期、承安3(1173)年に京都の日野の里(現在の京都市伏見区)にて、日野有範の長男としてご誕生されました。

親鸞聖人が生まれたのは、国の体制が大きく揺れ動いた激変の時代でした。公家中心の政治が行われた平安時代から、武士が実権を握る鎌倉時代へ。親鸞聖人のご誕生前に起こった「保元の乱(1156年)」「平治の乱(1160年)」によって、平清盛を棟梁とする平氏が政治の実権を握り、度重なる戦乱の末に敗北した源氏は遺恨を深め、世はさらなる戦乱の時代へと進みます。

さらには、台風や大地震、洪水などの自然災害や疫病がつぎつぎと起こりました。親鸞聖人5歳のときには京都に大火災が起こり、都の三分の一が消失、翌年には大飢饉が発生し、4万人を超える死者が出たといいます。

人々はいよいよ世の中が衰え救いのない「末法の世」が訪れたと、恐れおののきました。
親鸞聖人の幼少期は、このような混乱と荒廃に満ちた時代でした。


2.得度(出家)

親鸞聖人は治承5(1181)年、9歳の時に伯父の日野範綱のりつなに付き添われ、天台宗の慈円じえんのもとで出家得度されます。

この得度の際「今日はもう遅いから、明日式を行いましょう」と告げた慈円に、親鸞聖人は、「明日ありと思う心のあだ桜夜半よわに嵐の吹かぬものかは」と詠んだと伝えられています。

生きることのはかなさを桜花にたとえた親鸞聖人の歌に感じ入った慈円は、その日のうちに得度の儀式を執り行ったといいます。

得度して「範宴はんねん」という僧名を与えられた親鸞聖人は、比叡山に入山。以後20年間を天台宗の本山・比叡山延暦寺で過ごされます。


3.比叡山での修行

親鸞聖人は比叡山では横川を中心に修行していました。そして比叡山での最後の修行が「堂僧」でした。

堂僧とは、常行堂で「不断念仏ふだんねんぶつ」をつとめる僧侶です。不断念仏というのは、ひたすら阿弥陀如来のみ名を称え、阿弥陀如来を念じ続けることで、阿弥陀如来の姿を見る「見仏けんぶつ」の境地に達することを目的とする修行です。

親鸞聖人は修行に打ち込みましたが、修行に励めば励むほど見えてくるのは、末法の世では自力で万民を救うことができないということでした。

建仁元(1201)年、29歳の親鸞聖人は20年に及ぶ比叡山での修行を断念し、民衆とともに救われる道を求めて、下山されます。


4.百日参籠

比叡山を下りられた親鸞聖人は、聖徳太子の創建と伝えられる京都洛中の六角堂(頂法寺)を訪れ、100日間籠もられます。参籠さんろうを続けて95日目の夜明け、親鸞聖人の夢の中に、聖徳太子が観音菩薩の姿になって現れ、お告げを授けられます。

それは、厳しい修行をおこなわなくても、煩悩をもった人間がありのままの姿で救われる、阿弥陀仏の絶対の救済があることを示した夢だったと言われています。

この夢告を受けた親鸞聖人は、当時吉水に庵を結び「専修念仏せんじゅねんぶつ」の教えを説いていた法然上人のもとを訪ねます。


5.法然上人との出遇い

法然上人の専修念仏の教えとは、極楽浄土は自らの力で行うものではなく、阿弥陀仏の力によってかなえられるものであるという「他力たりき」の教え、つまり阿弥陀仏がすべての人間を往生させてくださると説く教えでした。誰でも、一心に念仏を称えればあまねく救われるとする専修念仏の教えは、厳しい戒律を守り修行の末に悟りを開くことを理想とする当時の仏教界においては異端視され、批判の対象にもなっていました。

しかし、その教えに聖徳太子の夢告と通じるものを感じた親鸞聖人は、雨の日も風の日も100日の間、法然上人のもとへ通い続けました。そしてこの教えを確信した親鸞聖人は、「本願に帰す」と、専修念仏を説く法然上人の門下に入ることを決意されます。

法然上人のもとで専修念仏への理解を深めた親鸞聖人は、元久2(1205)年33歳のときに、法然上人の著書『選択本願念仏集』の書写を許されます。

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