二十四輩第二 真仏

専修寺せんじゅじ

<t_003>専修寺

江戸期に高田派の良空が著した『正統伝しょうとうでん』によれば、親鸞聖人は元仁2(1225)年、五十三歳のとき、布教の途上この地で野宿をしていたところ、明星天子みょうじょうてんしと称する童子から夢告を受け、伽藍建立を発意したという。翌年ここに一堂を建立し、長野善光寺から「一光三尊仏いっこうさんぞんぶつ」を迎えて本尊としたのが専修寺の草創と伝えられる。
戦国時代になって、専修寺は兵火に遭い衰退し、伊勢国(三重県津市一身田)に移転。旧地は江戸期になって現在のように復興された。高田派では、三重県一身田の専修寺を「本山」とし、旧地・栃木県高田の専修寺を「本寺」と呼んでいる。

有力門弟の真仏と顕智

真仏の俗姓は、下野国司大内国春の嫡子・椎尾弥三郎春時と伝えられる。親鸞聖人の弟子を記録した『親鸞聖人門侶交名牒もんりょきょうみょうちょう』には、真仏の門流として二十人近くの名が記されている。真仏のあと専修寺を継いだのは、娘婿の顕智けんちであった。顕智は親鸞聖人の葬儀を執り行った聖人直弟子の一人でもある。

こころざし

親鸞聖人の帰洛後の生活は、関東の門弟たちからの「こころざし」によって支えられていたことが、「親鸞聖人御消息ごしょうそく」にうかがえる。教忍の二百文、覚信かくしんの三百文、慈信じしんの五貫文など、門弟からの送金を受領した旨が記されている。真仏宛とみられる返信には、二十貫文もの送金があったことが記されている。いかに真仏を中心とする高田門徒が多くの広がりを持ち、親鸞聖人を支えていたかがわかる。

善光寺様式「一光三尊仏」

高田専修寺の如来堂の本尊は「一光三尊仏」といい、一つの光背の中に阿弥陀如来と脇侍の観音菩薩、勢至菩薩がおさまる様式である。これは善光寺式阿弥陀三尊と呼ばれる。専修寺では秘仏として十七年ごとに開帳される。

『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用

正式名称 高田山 専修寺
住所 栃木県真岡市高田1482
アクセス 北関東自動車道真岡ICを出て、国道408号線へ。真岡IC南交差点を左折し、県道47号線に入る。田町北交差点を左折し、県道45号線に入り、約6キロ先。
駐車場 普通車50台以上
参拝 事前連絡が必要
お問合せ TEL 0285-75-0103

二十四輩寺院