2026年 11月の法語・法話
The Tathagata is not of any form, but is none other than the voice that calls out,'Namo Amida Butsu'.
霊山 勝海
法話
「飾りじゃないのよ。アミダはマンマン」(※マンマンとはマンマンチャン、阿弥陀さまのこと)
ある出版物の編集会議で、中森明菜が歌ったヒット曲をもじって私が提案したタイトルは見事にボツを喰らった。
理由は、「その歌は40年以上も前のものだから若い人には響かない」とのこと。それはそれで一理ある。
「お仏壇に安置されている絵像や仏像が、私を救うわけではない。絵像や仏像は仏さまのお心をお姿に現したものなので、大切なものに変わりはない。しかし、本質は南無阿弥陀仏のお念仏が私を救うのだ」
ということを表現していたんだけどな。
親鸞聖人は『教行信証(行巻)』で、南無阿弥陀仏というお名前がどういうことを告げているか、精密な解釈を施されている。そして、
「帰命」は本願招喚の勅命なり (『註釈版聖典』170頁)
と結ばれている。「招」とは招く。「喚」とは人に声をかける。「招喚」とは「招き喚ぶ」ということになる。これは、阿弥陀さまが浄土へ招き喚んでくださることを顕している。
ところが親鸞聖人は、招喚を「まねきよばふ」と訓まれている。
まねきよばふとは「よび続ける」ということである。阿弥陀さまは、昼夜問わず私を喚び続けてくださるというのだ。どうして喚び続けるのか。それは私が欲望に振り回され、阿弥陀さまと反対の方を向いて逃げようとしているからに他ならない。
先日、スマホを見ながら横断歩道を渡っている人がいた。車が来ていたので、とっさに「危ないですよ」と声を発したら、その方は我に返って渡りかけた歩道から引き返してきた。危ない時にメールを送っても遅い、光で警告しても気付くかわからない。急ぎではない返信を待つならメールでもいいが、急ぎなら電話。着信が鳴り続けると「重要なことかな。急ぎのことかな」と自覚する。
いろいろな手段がある中、声や音は強いと思った。そして、南無阿弥陀仏という声でなくてはならなかったということは、急ぎということだ。間に合わないものを間に合わせるために、声でなくてはならなかったのだ。
私が口で「南無阿弥陀仏」と称えれば、耳に「南無阿弥陀仏」と聞こえる。自分が称えているのに、自分が聞いている。「われよくなんぢを護らん(『註釈版聖典(七祖篇)』467頁)」と、私とご一緒して護ってくださる阿弥陀さまの喚び声と「ありがとうございます」と応答する私の声が、一つに溶け合って響いているのだ。
「必ず救うから大丈夫だよ」という阿弥陀さまの言葉が私の心に反射した心が信心であり、その心が口からこぼれ出るのがお念仏なのだ。
南無阿弥陀仏は飾りじゃないのだ。形じゃないのだ。そして大切なのは、常に私を呼び続けている如来(阿弥陀さま)の声に気付くことなのだ。
村上 慈顕(むらかみ じけん)
1978年福岡県生まれ。龍谷大学真宗学科卒業。仏教こども新聞編集長。
北九州市 永照寺住職。
- 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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- ※本文の著作権は作者本人に属しております。