2026年 9月の法語・法話

悲しみが 「いのち」への 深いめざめとなっている

Sadness is our deeply awakening to the depths of life.

瓜生津 隆真

法話

悲しみを避けて生きていきたい。これは人間の痛切な願いではないかと思う。
しかし、悲しみの矢を避け続けることはできない。
2011(平成23)年1月4日親友が28歳の若さで亡くなった。
ニンスケというあだ名の友人だった。往生の間際「耳は聞こえるから何か話して」と彼の奥さんから電話があった「ニン」「もしもし」と連呼するものの、本人は言葉を発することができる状態ではないので無言のままだった。私も、上手く言葉を紡げない。
最後まで生きる為に戦おうとしていた人間に、
「お浄土で会おう」とこちらからは言えない。
「がんばってくれ。生きてくれ」過酷すぎる。
「がんばったな」どれだけ傲慢な言葉だろう。
「大丈夫」何が?
言葉で伝えられることなんて、ほとんどが薄っぺらなことでしかないのかもれない。なんとか自分にとって嘘でない言葉を探し出し、
「ニンは一人やないぞ。みんないるぞ。気持ちはずっと側にあるぞ。一日も忘れてないぞ」
と言った。この言葉が本人に届いたかどうかはわからない。
確実に言えることは、あの日自分の人生において大切なものが一つ無くなった。そしてそれはもう二度と戻ってこない。それだけである。

ニンスケは亡くなる前、
「浄土に生まれたいなんて思わない。生への執着が増すばかり。最後まで闘病する」
と語っていた。
人は死ぬ間際、三愛に苦しむという。
境界愛(妻子・親族・家屋・財産等への執着)
自体愛(自らの身命に対する執着)
当生愛(命終の後に、自らの生がどうなるかわからない不安)
ニンスケも、娑婆の手摺から手を離すことを拒絶し、三愛に苦しんでいたのだろう。彼も僧侶だから「浄土に生まれて仏となる」ということは共通の認識としてある。なので、
「浄土で待っていてくれ。俺もそのうち行くからな」
「浄土から見守っていてくれ」
と、浄土での再会を最後の言葉にしたかったのに、何故かその言葉がスッと出てこなかった。「無常」と口では言いながらも、私は当分生きるであろうと いう打算や、病苦を理解できない健康な身体。今、命を終えようとする人の気持ちがわからない。
いろいろな要因がブレーキをかけたのだろう。

昨年、数名の友人が集まり、ニンスケの話になった。
今生きていたら43歳。どんなおじさんになっていたのかな......と思いながら歓談した。
あの臨終の日、もう一人の友人も「浄土で会おう」と言えなかったという。
あの日の様子は、脳裏に焼き付き、自分の中で10年以上燻り続けている。
言い方を変えれば10年以上、お育てをうけているともいえる。
今なら「浄土で会おう」と言えるのかな。しかし、この言葉を言う・言わないは、おそらくたいした問題ではないのだろう。綺麗な別れは、こちらの自己満足でしかない。
浄土への正因は、阿弥陀さまを疑うことなくうけいれる信心なので、死にざまを問うことはない。
ニンスケも、阿弥陀さまに抱かれ浄土に参り、きっと今も仏さまになって照覧してくれているのだろう。私に「臨終の在り方」という宿題を残して......。
それは悲しい愛別の縁ではあったが、いのちへの深いめざめとなる大切な機縁となった。

村上 慈顕(むらかみ じけん)

1978年福岡県生まれ。龍谷大学真宗学科卒業。仏教こども新聞編集長。
北九州市 永照寺住職。

  • 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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