2024年 5月の法語・法話

仏さまの光に照されて 私の心に明りがつく

When the Buddha shines that Light on me, oh my whole heart just lights up!

山本仏骨

法話

我々は意を決して、漆黒の闇に足を踏み入れた。
1986(昭和61)年7月初旬。大学の早い夏休みが始まろうとしていた。いつもの代わり映えしないメンツが、学生食堂にたむろしていた。華やかな学生生活を予想していたが、学生の90パーセント以上が男子の大学で、心浮きたつ出会いもなく、至って冴えない日々が続いていた(もちろん、出会いについては、他の主たる原因もあった)。

この日も各自の講義が終わると、三々五々学食に集まり退屈と戯れていた。
「皆さん、夏はやっぱりビーチですか?」
オレンジ色のタンクトップを着たNが言った。誰も反応しない。Nにだけ幼なじみの彼女がいたので、素直に笑えないのだ。
「凡庸だな」
と誰かがボソッと呟く。暫時の沈黙の後、カーキ色タンクトップのKが
「夏は肝だめしだろ」
と言った。というわけで我々はろうそくを買い、都心にあるA山墓地へ向かった。185センチ90キロ。巨体を誇るMを先頭に、じりじりと墓地へ入って行った。
まさに深い闇。ろうそくの灯りに照らされ、時々墓石群が浮かび上がる。コウモリがひらひら舞い、都会の喧噪が遠ざかり会話も途切れる。全てを吸い込んでしまいそうな闇の中で、土を踏むコンバースの音だけが響いた。
突如、予想だにしない悲劇が起きた。先頭のMが「おしっこ」と言って、ろうそくを放り出し、もと来た方角へ一目散に駆け去ったのだ。更に悪いことに、放り出したろうそくが地面に転がり、風に吹かれて消えてしまった。まさにまっくら(気分もまっくら)。
ところが......。僅か数秒の間に闇は消えた。Mが持っていたろうそくの灯りを凝視していた我々は、月と星が放つ柔らかな光に気づいていないだけだったのだ。我々は、既に光の中にいた。

自分が手に持つ光は、自身を照らさない。未来とか社会とか他人とか、自分の外側を照らそうとする。それどころか、手元の明かりを強くすればするほど、外からの光に気づけない。自分の力で光らせているものが弱まった時、やっと自分を照らす光があったと気づく。だから、自分の光だけを頼りにしている間は、なかなか仏さまの光(智慧)を素直に受け取れない。
既に仏さまの光に包まれていることに気づかされるのは、自力の光が揺らいだ時だ。その瞬間、仏さまの光は私たちの心に、消えない温もりとして灯ってくださる。それは弱さや醜さも照らすが、同時にあたたかい。仏の救いは、私の努力を求めない。仏さまが欲望だらけの私を受け入れてくれるから、私も自分を受け入れることができる。やっと安心できる光に出遇える。
あれから35年。私を含めA山墓地探検隊の面々は、今ももがき続けている。時々、深い闇にも出会う。一生それは変わらないだろう。だからこそ、照らしてくれる光が嬉しい。

藤丸 智雄(ふじまる ともお)

武蔵野大学非常勤講師、岡山理科大学非常勤講師、前浄土真宗本願寺派総合研究所副所長、兵庫教区岡山南組源照寺住職

  • 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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