2024年 4月の法語・法話

まことに浄土真宗とは聞法がいのちであった

To live in the true spirit of the Pure Land, we need to make Dharma-listening our way of life.

近田昭夫

法話

 これは、あるご門徒の女性が、懐かしく話してくださった昔話です。もう三十年ほど前、私がそのお宅にお参りした折、ご夫婦に対して、お寺の聞法会へのお誘いをしましたら、女性が、
「浄土真宗のお話を聞いたら、苦から救われて楽になれますか」
「いや、特には...」
と私。

「それでは、私はよく腹が立って困るのですが、腹の立つのが治まりますか」
と重ねて尋ねられたので、
「いえ、そういうこともありません」
とお答えしたら、お連れ合いが、
「そんなら何のために話を聞くんや。お寺なんか行かんでもええ」と。

「そういう期待に応えるご利益はありませんが、聞法すると安心して苦労もでき、腹立つことも受け止めて生きる力が与えられますよ」と私は答えたそうです。

 その女性は、それを機に87歳の今日まで、足しげくお寺の行事や聞法会に熱心に参加されるようになったのです。その間に彼女は、家の仕事や家庭の苦労、息子さんの難病、お連れ合いの死、そしてご自身の5回の癌手術と失明しかかった眼病を抱えながら、「聞かせていただいてよかった。もし聞いていなかったら、今頃私はどうなっていたやら」と言われ、「老・病・死という厳しい事実を、自分の身体によって教えられています」と実に明るく、よろこんで足を運んでおられます。

 この方だけでなく、聞法を重ねて来られた人に見られる底力、それは人の力を超えた威神力というものでしょうか。

 初めのうちは、「分からん、分からん」と言って聞いておられたが、いつしか聞き方が変わってこられました。「分かろう」という力みが抜け、法話を自分の身に引き当てて確かめるように頷きただ聞いておられるのです。

 ここに「聞き方」の転換があります。頭で理解して「分かろう」とか「どう心を持てば」「どのように実践したら」と期待している間は、法は聞けないのでしょう。それは「自分の思い」に当てはめて間に合わそうとしているのであって、「聞」いていないのです。要するに「自我の思い」で聴いているだけで、「法」を聞いている訳ではないのでしょう。

 「法」は「南無阿弥陀仏」、すなわち阿弥陀様の「本願の声」です。その声は自分の思い計らいは「間に合わんぞ」と気づかせ、「そのままで引き受ける」と呼んでくださる大悲の真実です。それは、苦難の生活の場で、煩い悩む身の、その苦悩の存在の根源から大悲の真実が南無阿弥陀仏となって喚んでくださっているのです。

 阿弥陀様はどこか遠くにおられるのではなく、「ただ念仏して聞法の座に就く」その人の身に湧き出る清浄な意欲となって現れてくださるのでしょう。この法語「まことに浄土真宗とは聞法がいのちであった」は、「聞法」こそ自我の妄執に迷っていのちを忘れ、自己主体を見失って彷徨っている現代の私たちを蘇らせる「いのち」といただきます。

藤井 善隆(ふじい よしたか)

1943年生まれ。大阪教区第2組即應寺前住職

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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