2021年 4月の法語・法話

如来さまより最も遠い身が 実は最も近い身でありました

Although I may be far from the Tathagata,the Buddha is actually very close to me.

和氣 良晴

法話

 皆さんは夕焼けを眺めて虚(むな)しさを感じたことはないでしょうか。この日常自体に不満があるわけではありません。楽しいことがないわけでもありません。家族もいて、友だちもいる。毎日の生活もしている。なのに、夕焼けを眺めた時に、今日もこうして二度と戻らない一日を失ってしまった。そんな虚しさを感じることはないでしょうか。

 今こうして現実を力いっぱい生きているのに、ただいたずらに時間ばかりが過ぎ去っていく虚しさ、と言ってもいいかもしれません。それはどこかに思いを繋げ、わかりあいたいと思いつつも、誰とも通じあえず、大きな宇宙の中にひとり生まれ、ひとりポッカリと浮かんでいるような、取り残されたような悲しさでもあります。

 太宰治は『人間失格』の末尾にこう書きました。

いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。

〝ただ、一さいは過ぎて行く〟。私の人生は、過ぎ去る命にしがみついて、やがて存在が失われていくただ孤独な存在なのだろうか。そう思うと、すべての生きとし生けるものを、一切平等の真理に目覚ませるという阿弥陀如来(あみだにょらい)の願いと聞いても、何の実感もわかず、まるで遠い世界のおとぎ話のように聞こえてくるものです。

 しかし、その如来の本願を説いた『無量寿経(むりょうじゅきょう)』を開いてみると、偉大な大弟子たちが集っていた中に、たったひとり、阿難(あなん)だけが未だ悟りを開けず、迷いの中にあったというプロローグが語られます。

 その阿難が、何かに呼び覚まされたように立ち上がり、お釈迦(しゃか)様に「あなたは仏と仏がお互いに念じ合う世界にいるのではないか」とたずね、その問いがお釈迦様に、私たちが求めてやまなかった本当の願いを説かせることになります。不思議に思いませんか。その場に集った中でただひとり迷いの中にあった阿難によってこのお経が始まるのです。言うならば、阿難がお釈迦様を目覚ませるところから、このお経が始まったと私は受け止めています。

 そして阿弥陀如来の本願が説かれていくのですが、その願いは私ただ一人(いちにん)を救うためであったと、親鸞聖人(しんらんしょうにん)は言われます。なぜ私一人かといえば、私がもっとも如来から遠い存在だからです。『無量寿経』に説かれる本願(第十七願)のお意(こころ)を私なりにいただけば、最も救われ難い私を目覚めさせるために、如来は宇宙全体に向かって、この私一人を呼び覚ますことに協力してほしい、そのために我が名(南無阿弥陀仏)を呼んでほしいと願いました。その願いが成就し如来の名を聞くことで、仏として目覚めていく道がこの私に開かれたのです。

 迷いのただ中にいる私が如来の願いを呼び起こし、そこから全てが救われていく世界が開かれていくのです。その意味で私は如来よりもっとも遠い身でありながら、如来の願いのど真ん中にいたのです。

 他ならぬ私が、この広大な願いが紡がれた歴史の始点にいたことに気づいたときに、私は知るのです。この宇宙の中で、私はひとりぼっちでただ過ぎ去っていくような、孤独な存在ではなかったのだと。

松下 蓮(まつした れん)

1975年生まれ。京都教区丹波第2組延福寺衆徒。

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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