2021年 2月の法語・法話

念仏者の人生は まさに慚愧と歓喜の交錯

The life of a Nembutsu practicer is an interplay of sincere remorse and joy.

梯 實圓

法話

 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)は、暗闇にうずくまる私を光で照らし、浄土(じょうど)があることを知らせ、「浄土に生きる者になれ」と願い、呼びかけてくださっています。そして、日常の様々なことに苦しみ悩みを持ち、悲しみや不安を抱き続ける私たちを

すべて、よきひと、あしきひと、とうときひと、いやしきひとを、無碍光仏(むげこうぶつ)の御(おん)ちかいには、きらわず、えらばれず、これをみちびきたまうをさきとし、むねとするなり。
(「唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)」『真宗聖典』五五二頁)

と、決して見捨てない摂取不捨(せっしゅふしゃ)のお心は、私を人生の出発点に立たせ続けてくださるはたらきであります。そのはたらきとは、私に生きることの喜びと尊さを気づかせ、現代の社会的価値観(勝ったか負けたか、優れているか劣っているか、できるかできないかなど)や人間の底知れぬ自我を破り、ありのままの自分を生きていく勇気と励ましを与えてくださることであります。

 これまでの私は、家族や自分自身に背(そむ)き続けるようなハチャメチャな人生を送ってきました。周りを見ようとせず、耳を傾けず、私は間違っていないと頑なに自分を守り、自分だけを信じて、一生懸命に生きてきました。と同時に孤独に怯え、周りの目を気にし、時には社会を憎み、正直、生きている実感も生きている意味も見出せずにいました。そんな中、念仏者・浅田正作(あさだしょうさく)さんの

わが身をたのみ
わが力をたのみ
頑張っている毎日
仏はそれを
永劫うかばれぬ
地獄の道と
おさとしくださる
(『続骨道を行く』法藏館)

「地獄の道」という詩に出あい、私自身がまさに地獄のど真ん中を生きていることを言い当てられた強い衝撃と、暗闇を彷徨(さまよ)い、途方に暮れている自分が確かに顕(あら)わになってきました。一方で、頑なに閉ざしていた心がどこか和らいでいくことも実感しました。それは自分のことでありながら、自分自身を知らずに生きてきた虚(むな)しさと悲しみに気づいた「痛み」という感覚なのかもしれません。

 人は誰もが「自分に出あいたい!」という本来的な願いをもって生きていると教えられますが、その願いに気づくことはなかなか難しいのではないでしょうか。なぜなら、社会的価値や自我に囚(とら)われ、理想と妄想の自分を演じていくほかない「無明(むみょう)(自分が一番かわいい)」の存在だからであります。だからこそ、それを知らせ、それを破り、身の事実に立たせてくださるはたらきこそが、南無阿弥陀仏ひとつなのでありましょう。念仏者の人生とは、常に仏を仰ぎ、常に信心の智慧(ちえ)に照らされて、私こそが罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の身であったと自覚せしめる南無阿弥陀仏の有難さと尊さに、出あい続けていくのでありましょう。

 思えば、「あぁ勿体(もったい)ない...勿体ない...」とよく聴聞していた北陸のお爺(じじ)やお婆(ばば)の言葉が思い出されます。日常の何気ない言葉と思っていましたが、きっとこれはお念仏申す生活の中で感得した、「慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)の交錯(こうさく)」を表した言葉に違いないと思います。

安本 知子(やすもと ともこ)

1979年生まれ。小松教区第二組本光寺衆徒

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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