

親鸞聖人が承元元年2月、念仏停止の事に連座せられ、越後の国、国府(現在の直江津)へ御流罪の身として御下向の途中、越前の国、山元の庄(現在の鯖江陸軍墓地)に於て親しく教を垂れられましたが、是れが当本山證誠寺開山の基であります。その、聖人の教化を受けた有縁の人々も長く御在留を願う術もなく、集まる者みな涙ながらに御見送り申し上げました。その後建暦元年11月、聖人勅免を蒙らせられ、それから二十有余年間、北陸及び関東の地方を御巡化になり、嘉禎元年上洛せられました。その事を知った越前の同行が代表を選び、聖人の此の山元の庄に御下向下さいます事を願い出ましたが、時に聖人はすでに御年63才の御老体になられましたので、その懇請をお受けになり難く、御自身の御影と併せて御真筆の御名号など数品を御子善鸞上人に御附属になり「我に代りて山元の庄に行化せよ」とて、上人を差遣はせれました。併し乍ら第二世善鸞上人は諸国遊化の御志厚く、その嫡男浄如上人を後に残されて旅路に向かわれました。
第三世浄如上人は若年にして上洛、御祖父親鸞聖人に常随親化を受けられ、聖人が弘長2年11月28日御年90才にて御遷化に相成りますと、御分骨を奉持して山元の庄に帰住し、聖人の御意旨を継いで真宗の教法弘通に専念せられました処、四囲の道俗その教化に浴する者日に多く、此の事畏くも天聴に達し、嘉元 2年8月2日、後二条天皇勅して参内せしめ、拝謁を賜い、御宸筆の「山元山護念院證誠寺」の勅額及び勅願所の御宣下を蒙りました。降って第9世善充上人明応8年9月23日先規にならって参内、天機を奉伺して、上人号を勅許せられましたが、当時は恰も応仁、文明の乱の後にて皇居の哀頽甚しきを憂ひ、御修理費を献上致され、後土御門天皇叡感斜ならず拝謁を賜ひ、当本山の寺暦並びに功績を嘉賞し給い、「真宗之源親鸞嫡家」の綸旨並びに菊桐の御紋章等を御下賜に相成りました。斯の如く本宗の血脉嫡流として連綿相継ぎ二十五世を経ております。
寺基は第五世旦應上人の代、天台宗中本長泉寺の焼討ちに逢い、山元の庄より旧日野川を渡って横越保に避難し、文明7年第八世道上人の代、此処へ寺基を定めて仏閣を造立しましたが、その後本願寺一向一揆に攻められて各地に難を避け、其の間に門末の殆んどは本願寺に改派せしめられ、また第十一世善教上人の代、豪摂寺の分立騒動があり当山が焼討に遭い、為に村国の郷(現在の武生市村国町)に移住して在村五世に及びこの間残る門末の大部分が分離しましたが、元禄3年第十六世善應上人の代、時の福井藩主の厚意に依り横越の旧地の一部を戻し得て堂宇が復旧しました。しかし昭和23年4月12日、第二十四世善敬上人の代、児童の弄火により影堂、阿弥陀堂、対面所、書院等を焼失しましたが、昭和26年影堂を復興、昭和39年阿弥陀堂、昭和40年対面所、昭和50年書院と27年間を経て漸く復興しました。昭和56年本山北側の国道417号線拡張工事に伴い、境内地537平方メートルが削られ、その折火災を免れた本山のシンボルとして四百有余年の歳月を経た大欅(回り凡そ11メートル)を伐採し、又庫裡、土蔵、庭園、五条塀等を移転改築することとなり、4年の歳月を経て、昭和59年7月第二十五世光教上人の代に漸く完成を見たのであります。