
越後流罪に遭われた親鸞聖人は、ご赦免の翌年建暦2年(1212)に京都に帰られ、山科の地に草庵を結ばれました。この草庵が佛光寺草創と伝えられています。当初真宗開闢の根本道場を意味して「興隆正法寺」と号しました。
親鸞聖人在世の当時、真宗の教えは関東を中心に広がりをみせていましたが、第七世了源上人になって教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に置き、光明本尊・絵系図・交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れました。戦乱の世にあって人々は風になびく草木のごとく上人のお徳を慕って念仏申すようになり、元応2年(1320)には寺基を山科から今比叡汁谷(京都国立博物館の辺り)に移しました。
建武2年(1335)12月8日、上人はご教化の途上、伊賀(三重)の七里峠において賊徒に襲われ、正法流布のご生涯を閉じられたのですが、その死に臨んで自己をあやめんとする者に対して、「この者を罪することなかれ、回心の気あり、よく後生を教ゆべし」とお諭しになりました。時に上人42歳でした。了源上人は、わが国ではじめて真宗教団を組織され、念仏不毛の地を耕されたお方で、佛光寺のみならず真宗教団の中興の祖といっても過言ではありません。
佛光寺が繁盛するにしたがって、それを妬む輩が現われ、ある夜御本尊や法宝物を盗み出して竹薮に投げ捨てました。その夜、後醍醐天皇が夢枕に東南の方向から一筋の光りが差し込むのをご覧になり、ただちに人を使わせられたところ、阿弥陀如来のお木像が出てきました。この仏像がわがご本山の阿弥陀如来像の台座と一致するところとなり、勅願により『阿弥陀佛光寺』略して佛光寺の寺号を賜ったと伝えられています。
了源上人亡き後、第八世を継承された長子の源鸞上人は在職13年で病没され、やむなく了源上人のお裏方、了明尼公が第九世の法灯を継がれることになりました。600年以上も昔五障三従の女人といわれた女性差別の厳しい南北朝時代に、女性が一山の門主の地位に就くということは、まさに革命的な出来事です。「本願には老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし」とのみ教えを具体的な形を通して世に顕正したのです。
以後、佛光寺は性別による差別のない開かれた教団として、多くの女性が教団護持に携わってきました。とくに、第二十七世を継承された真意尼公は、江戸から明治へという時代の激変期にあって、第二十五世真達上人亡き後、元治の兵火で灰燼に帰した本山を背負い、お念仏一筋に法灯を守りぬかれました。現在の本山両堂をはじめとする諸堂は、真意尼公の手によって再建されたものです。
寺基を洛中東山に移し、後醍醐天皇から寺号を賜った佛光寺は益々隆盛となりましたが、それとともに延暦寺の弾圧が強まり、応仁の乱を境に寺勢は次第に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなりました。天正14年(1586)には豊臣秀吉の懇請により、寺基を五条坊門(現在地)に移しました。
京都の中心部に移転して400年余り、その間にも多くの法難に見舞われましたが、門末の念仏相続のご懇念によって佛光寺の法灯は守り継がれてきました。その伝統をふまえ、本山では「深きいのちにめざめ、一切を拝める人になろう」をテーマに、混迷する現代社会にあって、お念仏の大地に根ざした真の人間の誕生を目指して活動しています。
毎朝午前7時より
午前7時30分 勤行
午前7時45分~8時15分 法話(12月29日~1月5日を除く)
11月21日~28日
